2008年7月23日水曜日

自然で当たり前のこと みーんな神様とひとつ

神様ってなにかなぁーって、いうと、愛と平和です。

唯ひとつの神様からの愛と平和です。

皆のなかにある愛と平和です。
皆のそとにある愛と平和です。
みーんなとひとつである愛と平和です。

それは、姿、形がないです。そしてまた、目に見える形や耳に聴こえるように現れています。
不思議ですねー。
生きてること自体が不思議なことです。
っていうかー、生かされてます。神に。

ふと、きづくと、私(私達)は神とひとつで、神とともに生きてます。
それは、とても、自然で当たり前です。

完全なる”それ”(That).

あなたは・・・


そう、わたしは、あなたです。
そして、
・・・・
(目の前の世界が現れ一体となる)
これも、あなたです。


主といわれていたもの、神といわれていたもの、
そしてまた、
それから、出で、天使とも悪魔ともいわれているもの、
それが、あなたです。
本当のあなたです。

すべての人の”わたし”です。

そして、
仏、ブッダともいわれています。
そして、
名もなき者、いちなる存在、なにもないすべて、大いなる意志・・・・

言い方は、違いますが、すべて、同じ"それ"を差し示し、同じそれから、出でています。

モーゼは、主なる神、神なる主と対面していました。話していました。
イエスは、神とひとつであることを自覚していました。
モーゼとイエスの違いはそれです。
預言者と神の子との違いはそれです。

モーゼは、主なる神を見、
イエスは、神でした。
それのきづきの差です。

それは、私がさせました。それなる主、神である私が。
私は、それです。

モーゼは、神と対面したとき、一体であることをしりました。
神との対面のとき、自分(モーゼ)は消え、神だけがあります。
しかし、まだ、いつも、一体であることを自覚せず。
自分と神とをわけていました。
神と自分、主と僕の関係の自覚です。

イエスは、神と自分は、ひとつであるこを、常に自覚していました。
神であり、神の子です。
それ自身であり、それから出た者です。

私の第一創造と、第二創造です。
つまり、神と主(主と僕にわける)の違い。
自覚の違い、気づきの差です。
いつも、それに気付いているか?どうかのです。

本当に、気付いている時、それだけです。
ですから、そのときは、気付きすらありません。


コトバで、あなたを、そして、私を顕すのは、難しいですね。


はい、コトバが示す、それを、見なければいけません。
その時、コトバは消え、時も消え、
それだけがあります。


あっ、・・・それは、いつも、それです。


それは、いつも、それです。
それだけが、あります。
神だけが、存在しています。


::::::


つまり、すべては、神です。
本当に神をみたとき、あなたも、なにもかも、消え、
それだけが、神だけが、私だけがあります。


しかし、まだ、現前の世界が消えていないまま、それと一体であることを
気付いているとき(もっともそのときは、気づきすらもないが)、
本当に、それ自身にはなっていないですね。


はい、それは、なにもなない存在ですから。
完全にない、つまり、完全に生きている存在です。

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実は、いつも、それなのです。
あなたも私も。

それは、あなたと私に離れて、話し合っています。
そして、そうでありながら、ひとつです。

完全なるそれは、これです。いまここにあり、
これしかないです。


ああっ、コトバにした瞬間、それは、虚となり、指し示すものとなります。
伝えられません。


あなたの苦しみは、そういうことだけにあります。
しかし、あなたは、伝えます。
そのために、あなたは、現れています。


はい


気づく人は、きづきます。
見る人は見ます。
だから、伝えてください。


はい


きづかない人は、いいのです。
その人の気づく、気づかないは、私がしていますから。
唯、あなたは、伝えなさい。


はい。それは、また、悦びでもあります。
光栄でもあります。


はい、私の栄光です。
神の栄光、神です。


あっ、そうですね。
わたしは、他の人(本当は自分でもある、さらには、あなたでもある)
がどう受け取ろうが、関係なく、
そのまま、伝えればいいのですね。


はい


神は偉大なり、神の恵みに感謝いたします。
これこそ、神の恵み、神それ自身。
私の神、私の主、そして私。
ありがとうございます。

 ・・・・・・・・・・(沈黙)


おそれては、なりません。
あなては、伝えるのです。
すべてに!


はい